蛍の心
自販機の声が静かな山間の中に響いた。
「トーマは何飲む?」
美雪の言葉に十馬は「いつものやつ」と答えた。
―――ナンデコウナルンダロ……
あたしの胸の奥で何かが『チクリ』と痛んだ。
そんなあたしの気持ちも知らないで、美雪は「ケーコは?」と聞いてくる。
「あ、コーヒー……あったらブラックの冷たいの……」
律儀に答えるあたしもあたしだけど……。
―――ホントならトーマと二人っきりのはずだったのにな……
思わず出た溜息に美雪が心配そうにあたしの顔を覗き込む。
「あ、何でもないよ、何でも……」
慌てて笑うあたしに美雪も十馬も笑い返した。
―――朴念仁……
思わず出そうになった言葉を溜息と一緒に飲み込むと、今度はそれが出てこないようにコーヒーで胃の中に一気に押し込んだ。
『あたし』こと、村上蛍子と鈴木美雪、そして岡田十馬は俗に言う『腐れ縁』と言う奴だ。
出会いは小学校の入学式。たまたまあたしの両隣に座っていたのが美雪と十馬との出会いだった。以来、中学、高校、そして事もあろうに大学の学部まで同じと言うマンガでさえも使わないような『腐れ縁』を演じてきた。決まり文句は三月の『これでお別れ!』と四月の『また同じ?』だった。
だから、あたしも美雪も十馬の事を『異性』だと思っていない。
……はずだった。
それが痛みだしたのは今年の五月、サークルの新入生歓迎コンパだ。去年、そうであったように、あたし達のサークルは二年生が新入生歓迎コンパの幹事をやらされる。と言うわけで、例によって、あたしと美雪と十馬がその幹事に選ばれた。そこまでは良かった。
でも、その時、美雪と楽しそうに話している十馬を見て、なぜかもやもやした気持ちになる自分に気付いた。そしてそれがもしかしたら『恋』なのかな、と一瞬だけ考えて、次の瞬間、否定した。だって、これまでずっと兄妹みたいに過ごして来たし、これからもずっとそうだと信じていたから。
よく、「男と女の友情は成立しない」なんて言うけど、あたし達の間にはそれは無かった。
もとい、そうだと信じていた。
この胸の痛みはきっとなにかの勘違いだと思いたかった。
でも、そう簡単に気持ちの整理って出来ない。一度意識してしまうと、まるで迷子の子供みたいにすぐ十馬の姿を追ってしまう。頭で否定するたびに心が悲鳴を上げる。十馬がそばに来るだけで、心臓が破裂しそうな勢いで脈打つ。だから、気付いちゃうんだ。美雪も……美雪も同じなんだって……。
だから、あたしは合宿の合間を縫って十馬を誘い出した。自分の気持ちに決着をつけるために。ただ、運が悪かったのは、そこに美雪が来てしまった事。あたしは「トーマに大事な話があるから、二人きりで話がしたい」って言ったのに、十馬は「美雪も来るか?」ときた。
そして今の状況に至ると言うわけ……。
ハッキリ言って状況は最悪だ。
―――あたしは十馬に告白したいのだろうか?
―――それとも、美雪に告白して欲しいのだろうか?
―――友情と恋、天秤にかけた時、どっちが重たいのだろう?
どっちも大事だからって何もしないのは卑怯だと思う。でも、その決心って普通つけられないんじゃない?
―――空気が重い……
きっと、美雪は感じているだろう。でも、十馬はどうなのだろう?
「……こ? ケーコってば!」
耳元で聞こえた美雪の声にあたしは慌てて顔を上げた。
そして次の瞬間、後頭部に走る激痛。
「ったぁ……」
後ろを振り返ると額を押さえている美雪がいる。
「ひどいよケーコ……」
美雪の言葉に謝ると、吹き出しそうなのをこらえている十馬を一睨み。十馬はあたしの視線に気付いてそっぽを向いた。
「美雪、大丈夫?」
言うあたしに美雪は首を横に振って
「大丈夫じゃないよ」
「文句が言えるなら大丈夫ね?」
僅かに微笑むあたしに美雪もつられる様に笑い出した。
―――あ……
重たかった空気が少し和らいだ。
「ケーコ、ちょっといい?」
それを見計らったかのように美雪の声。
「え……?」
先を行く美雪に付いていくあたし。そしてあたしの三歩ほど後ろに十馬。
「トーマは来ないで!」
珍しく強気で言う美雪の口調に十馬は頷くとそこで立ち止まった。
あたしと美雪は十馬から二十歩くらい離れると立ち止まった。
この距離なら、多分声は届かない。
「ケーコは……トーマをどう思う?」
そしていきなりの質問。あたしの心臓が飛び出るほどに大きく音を立てた。
「どう……って?」
それだけ出すのが精一杯。
「ハッキリ言わなくちゃわからない?」
強気の口調。言わなくたってわかる。「好き」か「嫌い」か、と言う事。きっと、美雪もあたしの十馬を追う視線に気付いている。あたしがそうであるように。
「……あたしに言えと言うの?」
ようやく出た震える声。美雪が頷く。
「ケーコはどうなの?」
美雪の言葉。それは「私はトーマが好き。ケーコはどうなの?」と言う事だろう。
「あたしは……」
ここで友情を取るとしたらどう答えるのだろう? 恋を取るなら答えは簡単だ。そして美雪は多分、そっちを選んだ。
「……あたしは……」
知らずに流れる涙。あたしはどっちを選ぶ勇気も無い。でも、十馬を取られるのもいやだ。それがたとえ美雪であっても。でも、それを言ったら、あたし達の関係は壊れてしまう。あたしは今更ながら、あたし達三人が触れれば壊れてしまう、そのくせ奇妙に頑丈な三角関係にある事を思い知らされた。
「ケーコが言わないなら、私から言う……」
美雪の重たい声。
だめだ……それを聞いたら後戻りは……。
「私は……」
その瞬間、あたしは美雪の頬を叩いていた。
「え……?」
乾いた音。慌てて走ってくる十馬。驚いたように自分の頬を押さえる美雪。そして泣いているあたし。
「あ……」
あたしはどうしてこんな事をしたのだろう?
でも、後戻りは出来ない。
「そうよ! あたしはトーマが好き! 誰よりも好き! たとえあんたが相手でもこれだけは譲りたくないの!」
あたしの胸が大きな悲鳴を上げた。
あたしは十馬が好き。その想いが堰を切ったように溢れ出す。
でも、心が痛い……。
まるで隠していた悪戯がばれた時の罪悪感を数十倍にしたような感覚。
「やっぱりね……」
美雪が呆れ半分といった表情であたしを見た。
「え……?」
「恋は人を盲目にするって言うけど、これは重症ね……」
美雪の言っている意味がわからない。
「誰がトーマのことを好き? そりゃ、好きか嫌いか、と言われれば、好きなんでしょうけど、私はケーコみたいに幼馴染に恋するほど、お約束じゃないわ」
美雪の言葉にあたしは腰が抜けたようにその場に崩れ落ちた。いや、実際に腰が抜けたのかもしれない。
「最近ケーコの様子がおかしいから、ちょっとカマかけてみたら、案の定なんだもの」
―――つい調子にのっちゃった。
美雪の忍び笑いにあたしの顔が火照っていくのを感じた。
「え……え……?」
まだ気持ちの整理が付かないあたしを尻目に美雪は十馬の肩を叩いた。
「じゃ、ここからはトーマの役目だから」
そう言うと美雪は合宿所の方に歩き出していた。
後に残ったのは思いっきり気まずい雰囲気のあたしと十馬。
「立てるか?」
ようやく十馬がそう言って手を差し出してくれたのは、多分、五分位(もしかしたらもっとかも)経ってから。
「返事……」
「え……?」
あたしの言葉に十馬は困ったような表情を浮かべると、頬を掻き始めた。
「あたしはトーマが好き。トーマは……?」
勇気を一生分使ってしまったような気がした。
十馬が答えを返してくれるまで、ほんの十秒ほど。
それが一時間にも、二時間にも感じられた。
「俺は……」
それからあたし達三人はどうなったかって?
あたしと美雪は前の通りになるまで時間はかからなかった。
十馬と美雪はいつも通りだ。
あたしと十馬?
どうなったと思う?
それは皆さんのご想像にお任せ。
ただ一つだけ言える事は、あたしが心配していたほど、あたし達の関係は軟では無かったという事。
[蛍の心・完]
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